膝に男の手が乗せられたが、ゆかりは何の抵抗も出来なかった。

向かいに夫が座っていて、彼の隣に裕樹がいる。

「裕樹君は、算数がどうも苦手なようですね……」
接客用なのか、少し甲高い声で男が言った。

「俺の息子だからかなぁ」と夫が苦笑いをする。
裕樹もつられて、はにかむような笑みを浮かべた。

「少し厳しい言い方をしますと、やはりこのままでは難しい。
 苦手科目があるというのは、取りも直さずそれを他の科目で
 フォローしなくてはならないということです」
真面目な表情でそう言っている男の指先が、ゆかりの太股を撫でている。

全身の毛穴から発汗しているように、体が熱い。
夫が気付くのではな
いか、と気が気ではなかった。

「休みの日も遊びに行かないで勉強してるのに、
 努力が足りない、ですか」
口調から、夫がわずかながら苛立っているのが彼女には分かる。

「そこまでして入らなきゃいけないのかな、そもそも。
 中学校なんて、どこも一緒じゃないのか?」

右手の人差し指を立てて、男が反論する。

「学歴が全て、とは私は言いませんし、
 勉強が出来ることで幸せになれる、とも私は思いません。
 人生にはもっと大切なことがあるとも思います」

そこで言葉を一度切り、彼は夫と裕樹の顔を交互に見た。

「しかしどこの中学校でも一緒、ということは絶対にありません。
 そこには彼の人生を大きく左右する重大な結節点があります。
 一度悪い分岐に進めば、本人の努力では変えることはほぼ出来ません」
 
「学が無いと苦労する、ってのは分かるけどさ……」

ぶつぶつと漏らす夫を遮るように、男はまた人差し指を立てる。
「失礼ながら」と前置きしてから、彼は滔々と説明を続けた。

中卒の人間はどうなっていくものなのか、
学歴によって収入の差はどれくらいでるものなのか、
おちこぼれた生徒がどういうことになるか。
この私立中学に入れば大学まで入試無しで進学でき、
それにはどれほどのメリットがあるのか。

説得力のある言葉の波濤に、夫は情けない言葉を返した。

「俺は……納得いかないけど、まあ裕樹の教育をゆかりに今まで任せてきて、
 今さら反対する権利も無いと思うし、口出しはしないよ」

仕事持って帰ってきてるから」と言って、夫は立ち上がった。
裕樹に「パソコンの部屋使うぞ」と断ってから、彼は二階に上がっていく。

ゆかりは安堵の溜め息をついた。

男の手は相変わらず。薄手のスカートの上から太股を撫で回している。
彼は、今年の倍率が例年に比べてかなり高いことや、
面接の評価基準が上がり事前準備がより大切になってくることを話した。

相槌を打ちながら、ゆかりは男の表情を盗み見る。
鼻息が荒くなったり、目線が泳いだり、額に汗をかいたり、
そういう動揺や興奮を微塵も感じさせない表情だった。

他人の家庭に上がりこみ、団欒のなかに紛れて母親に手を出す。
「そういうこと」に慣れているのだ。
スカートをまくろうとする左手の、ピアニストのように細い指を見ながら、
仁科ゆかりはこの男とめて会ったときのことを思い出す。

彼を紹介してくれたのは、隣の家の伊東夫人だった。
伊東夫人は、ゆかりより三歳くらい年上だと言っていたから、
恐らく三十の半ばなのだろうが、若々しい女性だった。

一人息子が、有名私立中学に入学できたのはある塾講師のおかげなの。
伊東夫人はそう言って、半ば強引にその男と会う機会を作ってくれた。
二週間後の週末、ファミレスで内容の説明をする、と。

ゆかり一人で行くように、と念を押す伊東夫人の口に薄い笑みが浮かんでいた。

身体を求められているのだと気付くのに、五秒かかった。

話の飛躍が余りにも急だったし、またそんな展開になるとは
夢にも思っていなかったからだ。

神崎と名乗る塾講師は、それが当然の成り行きであるかのように
ゆかりに向かって要求した。
代価を払う気がないならば交渉はここまで、とも付け足した。

ゆかりはドリンクバーから持ってきたカルピスソーダを飲み干して、
それから席を立とうか立つまいか迷う。
神崎は人差し指を立てて、見透かしたように
「迷う時間をあげましょう」と言った。

「お手洗いに」と言い残して、ゆかりは席を立つ。
ファミリーレストランの清潔な女子トイレで、彼女は鏡を見ながら考える。
普段の彼女なら「たかだか受験くらいでそこまでするわけないでしょ」と
一も二もなく断るであろう問題外の取引だが
このときのゆかりは、かなり長い時間思い悩んだ。

伊東夫人の話ぶりから、この男に頼れば確実に合格させてもらえるだろう。
もちろん裕樹を信じていないわけではない。
愛息がどれだけ頑張っているか知っている。
しかし、純粋に数字で考えれば合格率は四割を切るだろう。

遊ぶ間も惜しんで、死ぬ気で頑張ったのに、努力が報われなかったとき、
彼はどう感じて、どういう成長をしてしまうのだろうか。
息子が不良になる姿や、治安の悪い中学に入りいじめられる姿が浮かぶ。
ゆかりは動揺した。

ゆかりは、肩にかかる黒髪を掻きあげながら鏡に映る自分の姿を見た。

剃り整えてもいないのに真っ直ぐなラインの眉、
左右が少しだけ垂れた目の下がぷっくりと膨らんでいて、
彼女自身はそれを疎んでいたが男性からは良く好まれた。
鼻はそれほど高くないがすっきりと筋が通っている。
そして、夫が一番好きと言ってくれた薄く濡れたような
細面の、日本的な顔立ちだと、夫はそうも言ってくれた。

自分の外見的魅力が無いとは決して思わないゆかりだったが、
それでも性的欲求の対象にされるというのは想像の埒外だった。
大学をやめて、結婚してすぐ裕樹を生んで、もう十二年。

夫以外の男性に言い寄られた記憶は、すでにほとんど忘却の彼方だ。
増して最近ではその夫すら相手をしてくれなくなっていた。
こんな自分を、それでも抱きたいと思うものなのだろうか?

強い嫌悪と同時に、ほんの少しだけ誇らしいような気持ちにもなる。

目を閉じる。
夫の顔が浮かんだ。大学生の頃の、若々しい彼の顔が。
次に裕樹の顔が浮かぶ。教科書とノートに突っ伏して眠ってしまった彼の顔。
それから最期に、神崎の顔が。

静かにまぶたを開く。
鏡の中で、とても強い顔をした女が、ゆかりを睨んでいた。

四者面談をします、と言われたとき、ゆかりはかなり驚いた。
人の家庭にまで図々しく顔を出すつもりなのかと。

神崎は事も無げに「やるからには徹底的に、がモットーでして」と言った。
「ご両親の教育方も知っておきたいのですよ、奥様」と付け足す。
あんな取引を持ち出しておいて「奥様」もないものだ。

「本当に、大丈夫なんでしょうね」
「ええ、もちろん。何しろ飛び道具がありますから」
「飛び道具?」

神崎はバッグから、一冊の冊子を取り出す。
「平成20年度」という字が見える。
それが何であるか、ゆかりにはすぐに分かった。

「それは……試験の!?」
「解答はお教えできませんよ。あくまでも私がお教えするのは問題です」
神崎はそう言ってすぐに冊子をしまった。

「試験の前日に、問題の内容を口頭でお伝えします」
「なんで!?」ゆかりはつい大声を出す。「今、それを渡してよ」
「お客様はあなただけではありませんから、これを渡すような
 リスキーな真似は出来ません。私の切り札ですからね」
神崎はそう言う。

確かに冊子を受け取ってしまったら、ゆかりが他の人間に渡すかも知れない。
物的証拠を残すわけにもいかないのだろう。神崎は用心深かった。

「では、面談の日に、また」
そういい残すと、彼は伝票をつまんでファミレスを出て行った。

神崎の左手が、ゆかりのスカートの裾をつまんで、
ゆっくり、まるで水中を掻くようにゆっくりとたくし上げていく。
ゆかりはそれを両手で押さえながら、裕樹の顔を見た。
息子は退屈な会談にやや辟易した表情で、机の上の資料を見ている。

「裕樹君は、この中学に入ったら何をしたいの?」
神崎が訊いた。

「うーんと、サッカー。……です」
少し考えてから、裕樹が答える。
目上の人だから敬語をつけたほうがいいと判断したようだ。

「そっかあ。長いこと勉強ばっかりだったからね。
 運動もしたいだろうね。僕もね、昔サッカー部だったんだ」
神崎は息子に微笑みかける。彼の右手は額に添えられていて、
左手はゆかりの太股を撫で回している。

「この中学からだと、高校に受験無しで進学出来るから……
 サッカーの名門だなあ。厳しいと思うけど、裕樹君なら出来るよ」
神崎は甘ったるい言葉で、裕樹を励ました。

「奥様も、そう思いますよね」
「ええ」
ゆかりはかろうじて、それだけ答えた。

男の指が、ゆかりの長いのつけねに触れている。

そこから30分ばかり、真剣な話題が続いた。

苦手科目、得意科目、面接
スケジュール的にもう始めなくては厳しい。
神崎は真剣に、本当に裕樹の将来を心配しているとしか思えないほどの
表情で語り続けた。

神崎とゆかりは、ほとんど一対一で話す格好になっていた。
彼の手は執拗にゆかりの尻やを撫で回し続けている。

夫が二階の部屋で仕事をしているのが、天井の僅かな軋みで分かる。
気まずさもあり、しばらくは降りてくることもないだろう。
ゆかりは生返事をしながらそんなこと…