俺はクソのような田舎町で生まれ育った。駅を降りると、川の上流は川沿いにちょっとした温泉街があり、下流は住宅街だった。俺が小4の頃お袋が亡くなり、それ以降、オヤジの生活は荒れた。 親父は観光で食ってたが、お袋が亡くなった後は、訳ありの女を取っ替え引っ替え連れ込んで抱いていた。
俺は親父が女を連れ込んだ日は、その訳あり女達の寄宿舎みたいな建物に預けられていた。学生">小学生のうちは単純に可愛がられていたが、中学になって学ランを着るようになると、「ボクちゃんも大人っぽくなってきたわね。おチンチンに毛生えた?」「もう精液出るの?」などとからかわれるようになり、中1の夏、短パンを逃がされ、
チンポを弄られた。数人の訳あり女達に囲まれて身体を押さえつけられ、勃起したチンポを扱かれたが、まだ射精しなかった。
「ボクちゃん、まだ精液出ないんだね・・・」
一人の訳あり女が呟くとパンツを脱いで跨がってきた。チンポが熱いマンコに呑み込まれた。女の腰が妖しく動き、チンポに強烈な快感を受けて俺は悶えた。
学生">中学生のボクちゃん、童貞喪失~」
一人、また一人と射精しないチンポに跨がって腰を振った。こうして夏の間に性交を教えられた。射精はしないが、ビクン!と身体が痙攣すると一度萎えた。幼くても空砲は打つのだろうか。
中1の秋、寄宿舎にセーラー服の女の子が連れてこられた。2年生の先輩だった。
「上若連の玩具だってさ。ボクちゃん、この娘とセックスしてみなよ」
俺は学ランを、先輩はセーラー服を脱ごうとしたら・・・。
「ああ、下だけ脱いで。上はそのままでおやり・・・」
学ランの少年とセーラー服少女の拙いセックスは、訳あり女達がビデオ撮影した。それが地下で売られて、数年後に『モノホン学生">中学生のセックス』というタイトルで画質の悪い裏ビデオとして流通していた。
俺が中2の夏休みの出来事だ。訳あり女が俺に跨がって腰を振っていた時、内股にザワワ~~という感覚が来た。その少し後、ドロドロドロ~~っと射精したのだ。
「!!エッ!ヤダ~~・・・ボクちゃん射精したの~~」
訳あり女のマンコにタップリと新鮮な精液が大量に噴出したのだ。しばらくして、その訳あり女は寄宿舎から消えた。
その後も俺は、訳あり女達の性欲処理坊やとして飼い慣らされた。コンドームをして相手させられた。今度は、すぐに射精すると叱られるようになり、我慢を覚えた。中学の時も高校の時も、時折連れて来られる顔見知りの同年代の女の子と制服セックスをさせられ、撮影されていた。後に知ったが、その中高生の女の子達は、温泉街に住まう貧困家庭の娘達で、『若連』と言う地域組織のうち、金持ちのお坊ちゃんだけで組織する『上若連』の男達の慰みものだった。みんな学生">中学生になってセーラー服を着ると、上若連に処女を奪われ、日々輪姦される。そして俺のような立場の男と性交させてビデオ撮影して、訳あり女達の小遣い稼ぎのために地下売買されていたのだ。上若連も訳あり女達も一切画面に映らないから、万が一当局に裏部で尾が押収されても、自分たちは検挙を免れるというずる賢さだった。時はまだ昭和だった。
高校を出た俺はクソ田舎を離れて県庁所在地へ出た。建設会社で働き、飯場の飯炊き女達の相手をして性欲を紛らわしていた。若い俺は、30代40代の飯炊き女達の人気者だった。21歳の時、建設会社に出入りしていた資材会社の女とハメ友になった。彼女は営業の女で27歳の人妻だったが、なかなかの美人だった。俺はその女に誘われて会社を移り、しばらく不倫ハメ友をしていたが、女が旦那の子を妊娠して退社した。
その資材会社のOLと恋仲になったのが24歳の時だった。OLと言っても高卒の事務補助だったが、俺の生まれたクソ田舎にはいそうもない可愛い女の子で、名前は『絹子』と言った。24歳と19歳の々しいカップルは社内公認となり、微笑ましく見守られた。
「ねえねえ、キスしたの?」
女の子同士の会話が聞こえてきた。俺は性体験はやたら多かったが恋愛経験はゼロだったから、好きな女を口説いて性交に持ち込む術を知らなかった。性欲処理の性交と好きな女との性交は同じものではなかったのだ。だから、絹子が居ながら飲み屋の女と寝たりしていた。絹子が20歳の夏、薄着の絹子に欲情した俺はついストレートに言った。
「絹子・・・俺、絹子とセックスしたいな」「ムードないのね。もう少し愛情表現できないの?」
「絹子が好きだからセックスしたい」「『愛してる』とか『君が欲しい』とか、言えないの?」
全くもって恋愛下手だった。ラブホテルに絹子を連れ込んだ。絹子の裸はやや華奢でパイオツもあまり大きくなかった。何となく上若連の玩具にされていた先輩の中2少女の身体を思い出して、絹子は顔も体も学生">中学生みたいだと感じた。
「絹子は学生">中学生みたいに可愛いね」
褒め言葉のつもりだったが・・・。
「ペチャパイって言いたいの?」
つくづく恋愛下手だと思った。それでも成功経験豊かな俺は絹子の身体を愛撫し、濡れてきたマンコを広げて舐めた。絹子のマンコは今まで見てきたどのマンコより美しかった。完全に皮を被ったクリを吸い気味にして剥いて舐めると、絹子は急に、「ウアァァ!何?エッ?何コレ!アァァ~~」と、まるでエビのように跳ねていた。大抵の女はこれをやると艶めかしく喘いだのに、絹子の違う反応に俺は面白がって舐め続けると・・・。
「ちょっと、ストップ!ストップ!」
クンニを中断させられた。
「どうしたんだよ。気持ち良くないの?」
「なんか変な感じ。それに、アソコ舐めるのって変態っぽくない?」
セックスの前には、マンコを洗ってあるならクンニするのが当然と思っていた俺は、絹子が言ってる意味が分からなかった。フェラしてもらおうと思ってチンポを近づけると怪訝そうな顔をされて、絹子は性器を舐めることを良しとしない女なのかとその日は諦めた。スキンを被せて絹子のマンコに入れた。思いのほか狭く、すんなり入らなくて、少し体重をかけるとズコッといきなり入った。
「イッタタタターーーー!」
「え?どうした絹子!」
チンポを入れられて悦ぶ女ばかりだったから、痛がられてパニックになった。
「は、は、めてなの!」
「!!・・・めて・・・あっ!」
俺は、処女の存在と処女膜の破瓜について思い出していた。痛がっていた絹子だったが、2年後には俺の妻となっていて、股を開いてクンニを求め、チュパチュパとチンポを舐め、マンコに迎えたチンポをキュウキュウ締めて喘ぐようになっていた。子供は、女、女、男と3人生まれた。俺は出産のたび、飲み屋の女に手をつけて浮気した。そして結婚して12年の頃、会社の独身OL不倫していたところを興信所に押さえられた。絹子に愛想を尽かされ、俺は、慰謝料代わりに家と家財道具を全て絹子に渡し、体一つで家を出た。
俺は離婚後6年、45歳で会社を辞め、故郷へ戻り、オヤジが残したボロ家を直して住んだ。クソ田舎は俺を優しく迎えてくれた。すっかりひなびた温泉街の観光協会の仕事をして暮らした。俺の相棒は、銀縁メガネの『孝子』という37歳の行かず後家だった。決して不細工ではないのだが、髪を後ろで束ねただけの洒落っ気ゼロの女だった。女を感じないからかすぐに仲良くなり、1年もすると週末は連れ立って飲みに行っていた。孝子は完全にオヤジ化していて、ある日、ベロベロンに酔って、目が覚めたら俺のボロ家で二人でゴロ寝していた。
土曜の朝、俺の家から出てきた孝子が数名の人間に目撃され、噂になった。平成の世でも、田舎町では男の家から女が朝帰りはセンセーショナルな話題だった。
「私達デキてる事になってるわね。悪いことしちゃった・・・」
「悪い事?そうでもないけどね。俺は歓迎するよ」
話は簡単で、週末、孝子は俺のボロ家にやってきた。
「今時、シャワーもないお風呂って珍しいわね・・・」などと言いながら、身体を拭きつつ、どこも隠さず歩いてきた。
俺も風呂に入って戻ると、孝子が座って待っていた。
「私ね、セックスするの20年ぶりくらいなんだ」
「20年?10代のセックスが最後?」
「今はもうないけど、昔ね、上若連っていうふざけた組織があって、私、家が貧乏だったから、中学の時からそいつらに輪姦されてたんだ・・・。汚い体で、この町では恋愛なんか出来やしない。だから、汚い私なんかと噂になって申し訳ないと思ったんだ・・・アアン・・・」
孝子のマンコはビラが若干ドドメ色だった。37歳の人妻なら綺麗すぎるマンコだが、20年前、女子高生でこのマンコでは汚い女と言われただろう。
「アン、アアン・・・中1で体験して・・・アハン・・・週2~3日呼び出されて犯されて・・・アアッ・・・一度に5人に輪姦されたこともあった・・・」
しつこいクンニにマンコはトロトロになっていった。特に何も言わないので生で入れた。
「アア~~~高校になって・・・『お前のアソコは汚いからもういらねえ!』なんて言われてお払い箱・・・。きっと代わりの若い女の子が手に入ったんだと思う・・・。アン、アアン・・・、高2で変色したアソコの女なんて・・・お嫁には行けないわよ・・・アアッ・・・」
孝子は仰け反って、それ以上話さなくなった。俺は、あの中2の先輩達はどこで何してるんだろうと思った。孝子のマンコは、ずっと放ったらかしだったせいか良く締まった。中には出せないから、ヘソの辺りに射精した。
「別に、気にしなくていいからね。私、寝たからお嫁にしてとか言わないから・・・」
「そう言うなよ。一緒に暮らそうや・・・」
孝子と暮らして14年になる。入籍して13年だ。一緒に暮らしているうち孝子を妊娠させちまって…